元亀2年の戦いは、信玄による示威行動で、本格的な攻防戦にはならなかった。しかし信玄は、重圧に命じて高天神城を囲ませていて、このときから高天神城は臨戦体勢をとることとなった。(三方ヶ原の戦いの項を参照)
元亀3年におきた浜松城を守る家康と信玄の三方ケ原の戦いのあと信玄は死去。その後をついだ勝頼は、天正2年(1574)5月、高天神城を狙って、25,000の兵を率いて出陣し、12月には城を包囲。
城主、小笠原長忠は早速使いを浜松城に出し、後詰(敵の背後から襲うこと)として援軍を要請。
勝頼が全力をあげて高天神城を包囲したことを知った家康は、さらに信長の
援軍を要請した。
なかなか後詰のこない高天神城では、武田軍の猛攻がくりかえされており、6月11日には本曲輪(本丸)二の曲輪(二の丸)しか残っていなかった。
城主長忠は、家康からの後詰めなく生き残る道を模索しはじめ、勝頼に対して、いろいろな願いごとがなされた。
勝頼は、何としてでも高天神城を手に入れたい一心から、この小笠原長忠に好条件を提示して味方に誘った。このときの開城の条件として、勝頼は城兵の命を保障したばかりでなく、城主長忠と共に武田方につくのもよし、そのまま家康方に残るもよし、とその後の進路は各人の判断にまかせた。
長忠は駿河国富土郡の一部を与えられ、渡辺金太夫たちは武田方へ、渥美源五郎らは徳川方へ残り、6月17日に開城した。

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