金剛山貞永寺

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貞永寺.jpg 金剛山貞永寺(静岡県掛川市大坂)は、1233年の創建。安国寺とされ仏格も高く県指定文化財も数多く保存されている由来ある寺院である。

 公園頂上からの景色は見事で、天気の良い日には南は太平洋、北は遠く南アルプスや富士山を一望することができる。


貞永寺の由来(平成十三年)

 貞永寺は三井区にあり、臨済宗妙心寺派に属す。貞永元年の創立に係り、現住職二十九代、七百六十余年を経る。

 この寺は貞永元年(一二三二年)、四条天皇の輪命に依り建立、最初は真言宗であったと言われるが、元享の乱で零落。暦応年間(一三三八~一三四七、六十日六十年前)南浜大和尚(勅溢仏照大光禅師)再興臨済宗の一派を創建した。

 南漢和尚は九州大友氏の一族田原豊前守貞広の次男で足利尊氏、後醍醐天皇菩提の為各国に安国寺を建立するに当り、足利党(北朝系) である遠州守今川了俊の援助により、南浜を招じて住職となし安国山号を賜わり遠州安国寺とした。

 南浜和尚は足利尊氏の師匠である天竜寺(京都)派閉山夢窓国師の法弟玉峰禅師の法嗣で仏門に入り支那径山に入宋、禅の奥義を極め帰朝の後のことである。

 南漢和尚は貞永寺を根拠地として申達から西遠地方に臨済宗を広めた。現在この地方に貞永寺に関係ある寺院多く、明治初年には三十人ケ寺の末寺があった。
貞永寺は安国寺勅命寺院で臨済宗貞永寺派の本山として一派をかまえていたが京都妙心寺十世獣州宗和尚(勅溢広鑑神応禅師)住持(天文年間) してより妙心寺派に練合せらる。

 徳川家康第五世青庵和尚に帰依していたが、高天神城を抜き、貞永寺去る五丁大日堂に陣を敷きおる時、貞永寺兵火に遭い焼失するを知り、天正九年二月、横須賀城主松平(大須賀) 五郎左衛門尉康高に命じて再建。此の時四条天皇勅童弓勅額判物等焼失。

 徳川将軍より御朱印地廿一石、山林十余町歩を賜り十万石の格式を与えられた。将軍御代替、継目御礼、七年目毎御年頭相勤は廿三世雪州和尚迄続けられた。

 寛延三年(一七五〇)、開山南浜和尚四百五十年遠忌を、第十七世祐山和尚自隠禅師を招じて行う。自隠和尚同年八月一日より九月二十五日迄滞在、京都大徳寺派開山大燈国師の大燈録を提唱(講述)修業僧三百、住職方六十余、尼僧三十人、禅師一生のうち最長期間の大法会と云われる。依って祐山和尚これを記念して禅師の講述せるものを集録して槐安国語として出版した。これが挽安国語貞永寺版である。尚この時の筆になる自描形式の画幅が伝えられている。

 この由緒あり規模亦広大なるものがあった此の寺も天正時代高天神城の戦火に握り、天皇由緒、山門、三重塔、堂塔伽藍烏有に帰したが、青安和尚の尽力経営により再び隆昌を見、徳川将軍の恩遇もあり高徳の主続出、厳然たる寺格を保って今日を迎えた。現在本堂外建物三五〇坪。

 当山の梵鐘は文政二年(一人一九)第廿一世大粛和尚の時代に新鋳せられ、其の音は近郷に名高く三百余貫の大梵鐘なりしが、昭和十七年大東亜戦争に献納して今日に至ったが、再建の要望高く、檀信徒の浄財を得て昭和四十八年五月再建された。

 裏山は昭和四十一年大浜公園に続いて県指定公園になった。貞永寺山は元は足利将軍より安国寺寺領として賜ったものといわれ、亦閉山南漢和尚のいわれが深いものである。此の貞永寺山を船か鮮郎と云うのがそれである。南漢和尚が風波大難を越えて支那径山に渡り坐禅修業した其の地が七谷七峰に分れた天下の景勝地であった。開山南漢和尚が支那径山の七谷七峰を此の土地に再現して法憧を立てたこの山を此土径山と号した。総面積拾六万五千平方米には自然の各種植物繁茂し、南は谷口に始まって北方奥ノ谷に至る間、殊鵬台、富士見平、土径山、竹ノ谷、犬潜谷等、七谷七峰が景勝をなしています。また三十三観音を安置、車道も完備して信仰と観光の地を兼ねております。

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このページは、掛川の若旦那が2005年11月 1日 22:11に書いたブログ記事です。

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