~ 落 城 ~
高天神城が武田方のものになったため、家康は高天神域に対する押さえの城を築く必要にせまられ横須賀城のほかに、小笠山砦、三井山砦など計6つの砦を築いた。
高天神城には小笠原氏に代って横田甚五郎尹松が城番(城代)として入ったが、天正7年(1579)には岡部丹波守真幸と交代し、横田は軍監となった。
第二次高天神城の戦いの翌年には長篠の戦いがあり、勝頼は大敗、武田勢は守勢に転ずることとなった。 家康は北遠地方の城を次々と勝ちに乗じてとり返し、遠江における武田の城は、高天神城と小山城しかなかった。
高天神城に籠城する武田軍と、攻める徳川軍との間で、はじめて大がかりな武力衝突があったのは天正6年(1578)、国安の菊川の川辺であった。
城外でたびたび小競りあいがあった中で、家康は着々と高天神城包囲の態勢を整えた。要するに兵糧攻め。勝頼が運び込む兵糧、弾薬をストップさせれば、城は自然に落ちると考え、高天神城に入れない監視所が必要となった。これが砦であった。(天正7~8年をピークに築かれた。) 高天神城の岡部長教(岡部丹波守妻幸と同じらしい)ら籠城衆は、何度勝頼に応援を依頼しても音沙汰がないため、とうとう独自の動きをとった。
「降服したい」と家康に申し出が矢文を使ってなされたが、家康はその申し出を許可しなかった。 高天神城ではいよいよ兵糧がつきてきた。勝頼の後詰の動きはない。 城主岡部長教は天正9年(1581)3月22日、血路を開くため、ついに城内から全員が討って出、玉砕した。
実に壮絶な戦いだった。死者730余名が堀に埋まったという。家康は戦い終って城内を検視し、城郭を焼き払って浜松城へ帰った。
「高天神城落城」第一次の戦より約10年の長い武田、徳川の攻防であった。 翌年、武田勝頼は自刃し武田氏は滅亡した。

コメントする