11.城の最近のブログ記事

こんにちは、掛川の旅館三橋屋若旦那の橋山です。

いつもありがとうございます。m(__)m

 

先日の市民記者講習会の前、貞永寺の桜を撮影した後、、、

予定より少し早く出て、2箇所ハシゴです。

通り道なら、1箇所15分で30分早く出れば何とかなります(笑

というか、こうしないと今週は時間が無いのです(汗;

 

掛川城と枝垂桜:特にコメントも無く、、、普通すぎ?

20100324_掛川城と桜

 

掛川城と四季桜:入場券売り場があるので中に入るのは駄目だと思っていたら、建物の中に入るのに入場料が居るらしいです。ツイテマシタ!(笑

20100324_掛川城と桜

 

四季桜を撮っていたら、夫婦でお越しになっていたご主人が覗きに来られました。

若旦那 「ここから、お城見えるのですよ(^^ゞ」

ご主人 「なるほどー!」

若旦那 「そ、そうですか??(@_@;) (苦笑・・・」

 

ちょっとした隙間から狙ったので不思議だったのかな?(笑

その後、そのご夫婦に記念撮影を頼まれ枝垂れ桜の前でシャッターを押して差し上げました。

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今日も地元ネタで・・・(大汗; 

地元情報充実の為、掛川の情報が多くなってます。

お付き合い頂いている皆様、ありがとうございますm(__)m

 

20091030_掛川城御殿

城主の公邸、藩の役所、公式式典の場などとして使用されました。

現存する御殿は、江戸時代後期に再建された建物で、京都の二条城など全国で数ヵ所にしか残っていない大変貴重なものなのだそうです。昭和55年、国指定の重要文化財に指定されました。

20091104_掛川城御殿

中は広く、実際に江戸時代からあったものなので、時代劇にでてくる部屋がいっぱいです。実際に撮影にも利用された事もあるんですよ。

20091104_折り紙

面白いのが、折り紙で作られた大名行列の人形です。この写真は、ほんの一部で露払いから始まって、長い大名行列をそのまま再現したような感じです。そのほかにも、貴重なものが沢山展示されていますが、中に入ってのお楽しみという事で・・・

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20091104_掛川城

先日の七五三の際に行った掛川城を改めてご紹介します。

1604年(慶長9年) 大地震で大破し1621年(元和7年) に再建されたが、1854年(安政元年)旧11月4日の嘉永東海地震により再び倒壊。その後は天守の再建は行われず、天守台などの遺構が残るのみであった。1994年(平成6年) 市民や地元企業などから10億円の募金を集めて、戦後初となる木造による天守を再建し、掛川のシンボルとなっている。

詳しくは、ウィキペディアをはじめ、色んな所に掲載されていますね。^_^;

掛川城、天守閣のあるところは、復元以前は公園になっていて、桜が沢山咲いていました。今も春になると桜が沢山咲いて、白い掛川城とピンクの桜がとっても綺麗なんですよ!

20091104_掛川城を登る

中には山ノ内一豊ゆかりの品々や、掛川城の歴史が分かる資料が展示されています。

階段が、とっても急なので登る際には、荷物は背中に背負うか少ない方が良いかも・・・

この日は、天気もすごくよく、富士山も見えたのですが広角レンズだけで登った為、撮れませんでした。

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20091030_二の丸茶室先日の竹の丸へいった際、ちょっと早目に行って、近くを散策してきました。

ここの紅葉は、少し赤らんでいました(^^)

 

ここは、掛川城の二の丸茶室。

お茶も飲ませてもらえます。

以前頂いたことはあるのですが、この日は外だけぐるっとさせてもらって来ました。

20091030_二の丸茶室 千両・・・です。よね? 下に付くのが満了、いや、万両、葉っぱも違うんですが、いまだに、こんがらがります(>_<) 確認の為、調べたら百両ってあるんですね。

20091030_二の丸茶室

茶室:本格的です。

20091030_二の丸茶室

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20091029_竹の丸

ちょっと用事があって、掛川城北の竹の丸へ。

修復が終わり6月から公開されていたのですが、そのうち見に行ってみよう?!と思いつつ今日になってしまった。

竹の丸は、江戸時代に家老等重臣の屋敷地があった場所です。
明治時代、葛布を扱う豪商松本家がそこに邸宅を構えました。
松本家が転居するにあたり、邸宅は掛川市に寄贈され「竹の丸」として、市職員の厚生施設として、また、市民活動の拠点として利用されてきました。
平成19年から「竹の丸」の文化的価値が見直され、建物の修復工事が行われ、改修後は、有形文化財として一般に公開、施設の貸出しもできるようになりました。

竹の丸HPより引用

とのこと、初めて入るのですが、丸みを帯びた玄関の屋根や、一枚板の廊下など懐かしく思える要素があちこち感じました。きっと当館の昔の本館に似ているからかな?などと思いつつ・・・

20091029_竹の丸 庭に回らせて貰い何枚か写真を撮らせてもらったうちの一枚。

この紅葉が真っ赤に染まったらまたいい感じを醸しだすのだろうに・・・と思いつつ、まっすぐ帰宅。

20091029_竹の丸

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  ~ 落 城 ~

 高天神城が武田方のものになったため、家康は高天神域に対する押さえの城を築く必要にせまられ横須賀城のほかに、小笠山砦、三井山砦など計6つの砦を築いた。

 高天神城には小笠原氏に代って横田甚五郎尹松が城番(城代)として入ったが、天正7年(1579)には岡部丹波守真幸と交代し、横田は軍監となった。

 第二次高天神城の戦いの翌年には長篠の戦いがあり、勝頼は大敗、武田勢は守勢に転ずることとなった。  家康は北遠地方の城を次々と勝ちに乗じてとり返し、遠江における武田の城は、高天神城と小山城しかなかった。

 高天神城に籠城する武田軍と、攻める徳川軍との間で、はじめて大がかりな武力衝突があったのは天正6年(1578)、国安の菊川の川辺であった。

 城外でたびたび小競りあいがあった中で、家康は着々と高天神城包囲の態勢を整えた。要するに兵糧攻め。勝頼が運び込む兵糧、弾薬をストップさせれば、城は自然に落ちると考え、高天神城に入れない監視所が必要となった。これが砦であった。(天正7~8年をピークに築かれた。)  高天神城の岡部長教(岡部丹波守妻幸と同じらしい)ら籠城衆は、何度勝頼に応援を依頼しても音沙汰がないため、とうとう独自の動きをとった。

 「降服したい」と家康に申し出が矢文を使ってなされたが、家康はその申し出を許可しなかった。 高天神城ではいよいよ兵糧がつきてきた。勝頼の後詰の動きはない。 城主岡部長教は天正9年(1581)3月22日、血路を開くため、ついに城内から全員が討って出、玉砕した。

 実に壮絶な戦いだった。死者730余名が堀に埋まったという。家康は戦い終って城内を検視し、城郭を焼き払って浜松城へ帰った。

 「高天神城落城」第一次の戦より約10年の長い武田、徳川の攻防であった。  翌年、武田勝頼は自刃し武田氏は滅亡した。

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 元亀2年の戦いは、信玄による示威行動で、本格的な攻防戦にはならなかった。しかし信玄は、重圧に命じて高天神城を囲ませていて、このときから高天神城は臨戦体勢をとることとなった。(三方ヶ原の戦いの項を参照)

 元亀3年におきた浜松城を守る家康と信玄の三方ケ原の戦いのあと信玄は死去。その後をついだ勝頼は、天正2年(1574)5月、高天神城を狙って、25,000の兵を率いて出陣し、12月には城を包囲。

 城主、小笠原長忠は早速使いを浜松城に出し、後詰(敵の背後から襲うこと)として援軍を要請。

 勝頼が全力をあげて高天神城を包囲したことを知った家康は、さらに信長の
援軍を要請した。

 なかなか後詰のこない高天神城では、武田軍の猛攻がくりかえされており、6月11日には本曲輪(本丸)二の曲輪(二の丸)しか残っていなかった。

 城主長忠は、家康からの後詰めなく生き残る道を模索しはじめ、勝頼に対して、いろいろな願いごとがなされた。

 勝頼は、何としてでも高天神城を手に入れたい一心から、この小笠原長忠に好条件を提示して味方に誘った。このときの開城の条件として、勝頼は城兵の命を保障したばかりでなく、城主長忠と共に武田方につくのもよし、そのまま家康方に残るもよし、とその後の進路は各人の判断にまかせた。

 長忠は駿河国富土郡の一部を与えられ、渡辺金太夫たちは武田方へ、渥美源五郎らは徳川方へ残り、6月17日に開城した。
 

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 信玄は永禄12年(1569)10月、家康が越後の上杉謙信と盟約を結んだことを知り、これに刺激されて翌年の元亀元年(1570)、いよいよ本格的に遠江への侵攻を開始することとなった。

 元亀2年(1571)2月、信玄自ら2万の大軍を率いて甲斐を出発し、3月に高天神城の南東にあたる塩買坂(現在の菊川市川上)に陣を張り高天神城の攻めにとり組んだ。

 しかし信玄は、「城外に出ている高天神城の兵たちを城内に押しもどすだけでよい。」とばかり獅子ヶ鼻(現在の菊川市大石)と国安川のニケ所で小競りあいを行なっただけで、三河に進み、伊那を通って甲斐にもどった。

 真相は、高天神城が天嶮の要害に築かれた堅城であるのを見て、力攻めをあきらめたようだ。  こうして第一次高天神城の戦いは終った。

 このとき城に籠った兵は、城主小笠原長忠以下2,000名といわれる。

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 駿河と遠江二ヶ国の守護、今川氏真(うじざね)が、駿府今川館を、武田信玄によって逐われたのは永禄11年(1568)12月13日、信玄と家康が相談し今川領に同時進攻をはかった。

 氏真は掛川城に逃げこんだが家康に包囲されてしまった。永禄12年(1569)1月12日から5月17日まで、はげしい攻防戦がくりひろげられた。

 その攻める徳川軍の中に、寝返った(今川から徳川へ)ばかりの高天神城主の小笠原氏興・長忠の父子がいた。

 そして5月17日、氏真が降服し今川氏は滅び、家康はほぼ遠江を平定した。

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横須賀城跡.jpg かつては高天神城攻略の起点として築城され、その後280余年に渡り横須賀藩の中心であった横須賀城は、明治維新とともに廃城となり、残された城跡は現在国の指定文化財として整備が進められています。

 横須賀城(別称松尾城)は、平山城として、山城から平城に移る中間期の特徴を備え、中世城郭と近世城郭の二つを併せ持っています。

 また、普通1つしかない大手門が、この横須賀城には東西にあり「両頭の城」といわれたほか、「玉石積み」とよばれる丸い河原石を用いた石垣も、特徴としてあげられます。

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掛川の若旦那こと、掛川の旅館三橋屋の橋山です。

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興味あることは、学生時代は、音楽と絵。社会人になって、ゴルフ、スキーなどを経て、、、最近デジイチ購入しファインダーを通した世界に驚く日々、、、2010年は自転車も入り充実した毎日?!

特徴は、垂れ目、なで肩、メタボ、、、(汗; それは置いておいて、、普段は調理場に生息しているのでお客様の前に姿を現す機会は少ないですが気軽に呼んでくださーい(^^♪

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